真っ当だなんて思ってない
039:わたしの望んだものは、
馴染みのある紫煙が青いような気がした。人気の途切れる時間帯の喫煙所に気配がする。複数の灰皿と座ってくつろげるだけの椅子がある場所の仕切りだけが雑で煙草に汚れた磨り硝子が嵌まっている。一見して人影も見えない。想像は予測になり近づくにしたがって確信へ変わる。がらんと仕切りを乱暴に明けて開けても相手は堂々としたもので身じろぎもしない。
「ワァばれた」
驚嘆の言葉を吐きながら平坦な音程が空々しい。白くて細い指の先へ挟まれている煙草はすぐにでも捨てられると言わんばかりにぞんざいだ。
「少尉」
「ライです」
肩をすくめてからライの前に立つ。ライはその華奢な体をなかば床へ投げ出している。ずり下がったライの体躯が椅子の背もたれより低まって見えなかっただけだ。寄越せ。やだなぁ無心ですか。あんたァまだ解禁じゃねぇだろう。酒盛りに付きあわせたのに煙草は駄目なんですか? どっちものむな。だいたい酒精で意識飛ぶのに煙草は平気なのか。平気みたいです。しれっと言われて卜部の手が強引に煙草入れを探した。ライは拒否も嫌がりもしない。想定の範囲内であるかのように一口だけ喫むと灰皿で火を消す。隠しから取り出した煙草入れを卜部の方へ差し出す。
「どうぞ?」
箱ごと奪うとなんだか固い。探りだしたのは名刺ほどの大きさの鏡だ。裏縫いまでされて手が込んでいる。鏡かよ。ナルシストめ。僕の顔を忘れそうになるから時々見るんです。僕は誰だっけ、って。そりゃあ馬鹿なンだよ。けっこう毒吐きますね、卜部中尉。中尉でよろしいんですっけ?
鏡だけ突き返して一本抜き取る。咥えたところで囃された。人には駄目って言ったのに。俺はもうとっくに解禁なんだよ。ついでにライターを掏りとった。きょとんと驚く顔が幼い。眺めれば銀糸の髪は蜜色に透きとおって青い瞳は涼しげに瞬く。面差しに既視感を覚えるのはライが日本人という人種に姻戚関係があると聞いているからかもしれない。一口喫んで眉を寄せた。煙草入れを見ても包装はない。いぶかる卜部にライが気がついたように言った。それ、薄荷を染み込ませてあるんです。ひんやりするでしょ? 深いため息と一緒に吐き出す煙が青味がかるような気がした。あんた、記憶がねェわりに手癖が悪いぜ。許容範囲内だと思います。
しばらくぼんやりと煙草を喫む。煙草を取り上げられてもライは居座り続けた。二号さん。名前でも呼ばれるように呼ばれて目線だけ向ける。用心深いのは小心だからだ。ごく低いレベルであっても失態を意識している。
「藤堂中佐の二号さん」
「中佐ァいつ二号なんか娶ったんだよ」
「あれ? 二号さんって内々の関係だけじゃないんですか?」
「あんた言葉の意味判って話せよ」
「判ってないのは巧雪さんだと思いますゥ」
頭をひっぱたくのをライはわざと避けない。卜部の方でも避けるなどと踏んでいないから多少の手加減がある。赤い唇を尖らせて拗ねていたライの指が卜部の口元から煙草をかすめ取った。そのまま躊躇もなく咥えるとゆっくりと喫む。どこか世間ずれした仕草と背負っている背景の曖昧さとが奇妙に混ざっている。そういう情報はないのにライの仕草に不慣れはない。大振りな眼差しは半分ほど閉じて恍惚とした。
「巧雪さんだったら僕も二号にほしいな」
くすりと笑う唇は紅く澄んで妖しく艶めく。肌が白いので余計に紅が際立った。卜部はそれを潮に踵を返す。二号が欲しけりゃ一号かこってから来やがれ。本妻として迎える準備はありますよ? 至って真っ当なふうに言われて卜部の肩が落ちる。夫じゃねェのか。妻です。本気にしますから考えておいてくださいね。中佐を売るつもりはねェけど俺より優良株だぜ。僕は巧雪さんがいいんです。
「その一本だけにしとけよ」
何も知らないやつから掏ンなよ。空々しい返事と同時にライの頭がズルズル下がって椅子の背もたれより低くなる。くゆらせている煙は青紫に凝って天井へ吹き溜まった。卜部は煙草入れを手の中で転がしながら立ち去った。停滞は回復し繰り返される。
「卜部」
低いくせに響く声をしている。何事もなく聞いても萎縮する相手がいるのを気にして言葉少なに話す。それが余計に萎縮を呼んでいることには気づいていない。もっとも卜部は怒鳴り声も平気で聞くからその落差はわからない。揃いの軍服だが縫い取りの模様や装飾品で階級の違いがあらわだ。軍属として階級は絶対であり基本情報だ。やりとりは上から下の一方通行しか存在しない。
「中佐?」
藤堂鏡志朗という立派な名前があるのだが大抵のものは階級で呼んだ。ときおり藤堂中佐と呼ぶ。軍属内において中佐という階級にいるのが藤堂だけではないからだ。
ちょうど良かった、先ほどの書類なんだが。藤堂が持っていた書面を示す。淡々とした音程を聞いていると眠くなる。退屈というよりは波長が合って緊張が弛むのだ。藤堂の指先を必死に目で追いながら停滞した思考の動きは鈍い。なんとか返事をしながら藤堂の首筋や手首にばかり目が行く。二号って。ライに言われたことがまだ尾を引いている。だいたいにして真っ当とは言いがたい関係をひとつふたつと数えて良いのかも曖昧だ。気が付くと覗き込まれていた。飛び退りたいのを堪える。肩だけビクリと跳ね上がった。卜部、私の話は退屈か? 責めるつもりはないのか心底困惑した表情だ。改善できるところはする。背丈は卜部のほうがあるから藤堂の目線はわずかばかり上を向く。長身である藤堂の上目遣いは卜部の密やかな優越だ。一度会話の端にこぼしたら本気の八つ当たりが来たので慎重になった。背丈は体躯の中でも手の施しようのない部類だ。
「退屈じゃあねェンですけど」
そも、卜部に明確な方向性はない。方針について意見が割れた時、可能であれば多数決を提案する卜部は趨勢に逃げる。長いものには巻かれろ。藤堂だけは別格だ。藤堂も利己的な主張を振りかざしたりしないのでいい塩梅に事は進む。
「なんだか眠そうだった」
「眠そうって」
呆れを含んだ卜部の声音に藤堂はわずかに眉を寄せて不服を表す。眠ってしまう前と表情が似ていたから。だから眠るって。寝台の上で、事の後に。
「どこから引っ張ってきてんだよ!」
眠気は飛んだ。
うぐうぐと唸ってから卜部は煙草入れに気づいた。一服しないと落ち着けそうもない。煙草にそういう効能があると聞いたことはないが煙草喫みの習性として咥える。…それ、は、少尉が持っていたような気がするが。ガキの喫煙は見つけ次第殴りつけてくださいよ。卜部の小言にさえ藤堂は無反応だ。
「揃いのものを持つ仲なのか?」
くらくらした。折りたたむ膝の上に頤を乗せて腕を前に投げ出す。叱責されても構わないと思うほど脱力した。藤堂までつられたように屈むから悪目立ちする。
「少尉の私物です。没収したンですよ。ありゃあまだ解禁じゃねェでしょう」
本人の同意や合意の上であれば。まだ何も知らねぇときに取り返しのつかない判断させないでください。
「…そう言うからには、卜部。お前は分別のある子供であったと」
「…少尉の肩持つなァ」
半眼で眺めると恨めしげに睨み返された。
「彼にはあまり借りを作りたくない」
「借りって」
指先が器用に一本だけを抜き取る。そのまま咥えた先端を近づけられる。目を眇めないと合わなくなる焦点に気を取られるうちに離れていく。煙草に火がついている。藤堂は深く吸ってから不思議そうな顔をした。薄荷を染み込ませた改造モンらしいですよ。味の保証はねェですけど。どうです?
「火のつき方が違うと思ったのはそれか。少尉は日常的に、こういう」
「じゃなきゃあしないでしょう」
何処で覚えたのかァ知りませんがね。最近のガキは頭ばっかり回るからな。染み込ませた薄荷の由来も怪しいですがね。言いながら卜部は平気でその煙草を喫む。二人で言葉もなく煙草を喫む。喫煙所ではないことには気づいていたがしまうのもしまえと言うのも気が引けた。
「中佐の女ァ何人います?」
唐突な上に失礼な問いだが藤堂の表情はまったく揺らがない。私の女? 卜部の口元だけがくっと歪む。馬鹿馬鹿しい。
「中佐に二号さんがいるって話を聞いたんで」
「ふむ、二号というからには一号がいなければおかしいか」
藤堂の灰蒼がふぅと遠くを眇め見てから悪戯っぽく卜部を見た。
「私の女は一人だ」
私を女にする男もいるが。明日の天気でも語るようにさらりと言われた。沈黙が返事だ。藤堂も卜部も驚きを殺す程度には世間ずれしている。互いに違う間隔で紫煙を吐いた。
「もっと貞淑であれと失望したか?」
「それを俺に言うんですか」
野郎が一人で清々としてどうするンですか。この国土において日本人であるという底辺はモラルの高低に影響した。安堵したような不服なような交じり合った表情が刹那に藤堂の顔を攣らせたがすぐに戻る。卜部の目線はわざと藤堂の奥手を見据える。お前にはいないのか。あぁ?
「お前に男や女はいないのかと訊いている」
乱暴な言葉を用いるときの不慣れや惑いが見て取れる。男も女もたとえだ。藤堂の言葉遣いは厳密で正確だ。言葉尻やちょっとした変化にさえ理由がある。卜部はわざと知らぬふりを通す。
「さぁ、どうすかね」
咥えている煙草でふさがっていると言わんばかりに煙を吐く。藤堂の灰蒼がその煙をわずかに追った。気のない返事に藤堂の空気がとがる。露わにしないだけで不満なのだ。ニヤニヤ笑うのを見て抑えようとするのがいじらしい。
「俺は猫だ猫だって言われますからねェ。条件が合えば誰とでも」
「同衾するか」
「言わないでください」
はねつけると思うほど素早い切り返しに、藤堂はしばらくむぅと黙った。それでも不意に真剣な眼差しを向けてくる。条件とは具体的に。ハァ? お前と同衾するための条件が具体的に何なのか聞いておきたい。ぽかんとした卜部の口から煙草が落ちる。藤堂は嫌がるでもなく落ちた煙草の火をにじり消した。後始末にいちいちまめだ。私はその条件に当てはまっているだろうか。
「中佐、二号さんの意味判ってますか」
「……言葉や認識が甘いか。同時進行中の二人目の恋人及び愛人だと認識している」
感覚や感想をきちんと言葉に変換できるのは藤堂の出来の良さで、その優秀さが齟齬を生む。
「間違ってはいないンだろうな」
「正解してもいないと言いたげだな」
肩をすくめて逃げる卜部を藤堂の真摯な眼差しが追いかける。
「私はお前が欲しい」
形の良い唇がうごめいた。わずかに開く虚の中へ燃えるように紅い舌が眠り白露に照る歯列が綺麗に並ぶ。戦闘時に歯を食いしばることも多く、奥歯を潰す話はありふれる。藤堂からそういう話は一切聞かない。収まるべき場所に収まるべきものがあるので滅多なことでは揺らがないのだろう。
「二番目ではなく。私はお前が、」
一番欲しい
唇が重なる。煙草の苦味と薄荷の清涼が交じり合って舌がしびれるようだ。頬骨や耳ごと固定されて逃げ場もない。抉るように貪られて卜部は体勢を崩した。そのまま床へ腰が落ち、膝の間へ藤堂が割り込んでくる。
「ちょ、っと…」
唇を解放した舌は耳を穿って首筋へ埋まろうとする。ことさら音を立てたりしないが濡れた感触が鮮明だ。皮膚を撫でる柔らかさは芯のある温もりであり絶えず鼓動に振動する。皮膚の薄い場所が触れ合えば互いの脈が知れた。ぶる、と身震いすると藤堂が微笑う。吐息が震えた。
力の抜ける体が床へ仰臥する。藤堂はゆるやかに覆いかぶさってくる。無理強いはしない。たぶん、嫌だといえば退く。赦されることが判っているところへ便乗する賢しさが卜部にはない。損ばかりする。判っていても直せない。
「中佐、ここ、往来…じゃ、ねぇ、か」
「人は来ない」
なんで。みんなにも予定というものがあるだろう。藤堂の放り出した書類の白さが灼きついた。だいたいあんたァ書類、を。あれか。急ぎではないんだ。お前に会う理由が欲しかった。
卜部は四肢を投げ出して藤堂のされるままになった。
にじり消された煙草は二本に増えていた。
《了》